2019年7月13日土曜日

岡山城二ノ丸の外下馬門櫓石垣をOpenDroneMapで3Dモデル化しました(その2)。


岡山城の外下馬門櫓石垣の3DモデルをOpenDroneMap 0.8.2で再生成してみました。

前回のバージョンから何回かのアップデートがありましたが、明らかに石垣隅角の形状や、築石のディテールがきちんと表現されるようになっていて、アップデートの進捗がうかがえます。

生成されたgiotiffをQGISにはめ込んでGIOリファレンスする限り、まだまだ実測図の代わりになるほどの正確さはないようですが、今後のアップデートに期待ができそうです。

ODM開発チームには、最大限の敬意を払いたいと思います。

外下馬門櫓石垣の位置
QGIS上で合成した西丸西手櫓の位置
※下図は「OpenStreetMap and contributors、地図はCC BY-SA としてライセンス」である

2019年7月12日金曜日

岡山城の西丸西手櫓石垣をOpenDroneMapで3Dモデル化しました。




岡山城現存櫓の一つ、西丸(にしのまる)西手櫓(:重要文化財)の基部石垣をOpenDroneMapにて三次元モデル化。

西の丸西手櫓
西丸西手櫓と石垣
かの禁酒会館南の駐車場に、近年突如出現した岡山城の新たなビュースポット。道路に面していた建物が取り壊しとなったため、この姿を見ることができるようになったのでした。

慶長8年。小早川秀秋亡き後、備前一国を拝領したのは後に西国将軍と称された池田輝政の息子にして、将軍徳川家康の外孫であった池田忠継でした。時に忠継は5歳。この時岡山城に入って代政したのが異母兄の池田利隆でした。これを利隆の「備前監国」といいます。

利隆は岡山城主ではなかったことを鑑み、ここ、西の丸を築いて入城したとされます。

この時、あわせて築かれたとされるのが、この西手櫓です。重箱形の隅櫓で、一階は二ヶ所の格子窓と石落とし、二階も格子窓があるのみです。見ての通り総白壁の塗籠め造りで、壁も厚く、重厚な造りです。岡山城の西端を守る要地にあるだけでなく、全国的に見ても慶長期半ばに遡る可能性をもつ、貴重な櫓の一つです。

さて、その基部となる石垣の築石は、多面を割る打ち込み矧ぎです。間詰め石はほとんど用いられず、自然石はほぼ見られません。石の法量は揃っています。また、横目地がよく通り、布積み傾向が顕著です。さらに、地山の削り残しとみられる巨岩が、あたかも鏡石のように見るものを威圧しています。

自然石が混じり、間詰め石も顕著に見られる石山門周辺の石垣とは、異なる様式を示します。ただ、単純に時期差と考えてよいかは、思案のしどころです。

とにもかくにも、慶長期に遡りうる櫓と石垣のセットが見られるのは、岡山城ではここだけですので、岡山城散策の際にはお見逃しなく。

QGIS上で合成した西丸西手櫓の位置
※下図は「OpenStreetMap and contributors、地図はCC BY-SA としてライセンス」である



2019年7月10日水曜日

「ムカシのミライ」読感

ずいぶん前に読んだのですが、某所で話題になっているようなので私見を述べます。

監修者の一人である溝口先生の意見について基本的には賛意を表したいのですが、一部違和感を感じたのでここではそれを中心に述べます。

先生はこの本の最終章の「ポストプロセス考古学的フェーズにおける社会考古学」の中で考古学的実践を、「過去の人々が、自らが分節した世界の複雑性を切り縮め・加工しながら生き続けたことの物的痕跡」を対象に行われるとしています。

ですが、この考えは社会システム理論的に誤りなのではないでしょうか。

まず、私たちは世界を知り得ません。世界はありとあらゆるもの全体であり、私たち人間の知性が知りうる最大の複雑性(=ミクロ状態の違いによって区別された場合の数。ようするに選択肢のこと)を圧倒的に凌駕するものです。ゆえにその縮減など不可能です。 

私たちが学問的実践の対象としているのは世界ではなく、溝口先生がいみじくもおっしゃるとおり社会です。社会とはコミュニケーション可能なものの総体です。

また、少なくとも私たち日本の考古学の研究者は物的痕跡そのものを対象に、学問を実践しているわけではありません。私たちは物的痕跡を「型式(=A)」という「概念」として把握しています。「型式」は複数の個体の差異を超えて抽出される属性(=a・b・c)の集合からなります。これを式に表すと以下のようになります。

a∈A b∈A c∈A つまり、A{a,b,c}

第3に「型式学」による考古学的実践はその出発点において否定姓を帯びています。型式Aの存在は無数にある属性の中からa、b、cを示差的に選択した結果得られます。これは同時に属性c、d、eを非選択したことに他ならず、故に型式Aを設定することは、c、d、eを組み合わせた型式Bの存在を暗黙的に前提とします。以下、式で表すとこうなります。

 A{a,b,c}ΦB{c,d,e}

よって、考古学的コミュニケーションは常に偶発性を帯びたもので、別の選択肢への可能性がプールされ続けます。

結果、考古学的コミュニケーションは現にある社会、あるいは国家の維持・再生産に必ずしも寄与するわけではないのです。むしろ、別の選択肢がいつ、いかようにでも可能であることを示し続けることにより、別の社会関係が可能であることを立証することにこそ、学問的本義があるのではないでしょうか。

第4に制度としての日本考古学は他の学問との互換性を持ち得ません。「型式学」という、他の学問が保持していない準拠フレーム(選択前提、ようするに制度のこと)を持っているからです。

溝口先生が「弥生時代の墓地を場/媒体として創発する領野とショッピングモールを場/媒体として創発する領野も」研究対象として「本質的な相違は全くない」とするのは一面的な見方なのではないでしょうか。

まず、前者は現に存在しない社会を対象としています。考古学の場合、「型式学的」方法により「物質的痕跡」を抽象化(=型式化)し、その相互の差異が時空間的にいかなる意味を持つかを問い続けます。 

一方、後者は現に存在している社会を対象としています。ショッピングモールを「市場」とみて、その「利益」扱う経済学、支払いや卸など「行為」の蓄積とみてこれを扱う社会学、「大規模小売店舗立地法」等の対象としてこれを扱う「法学」など様々な経験科学により分析が可能です。

もし、考古学的にショッピングモールを分析するなら、ショッピングモール内の各店舗の構造、店舗と導線との位置関係、駐車場との成層的、あるいは並列的な空間構造を諸属性とする型式Aを抽出し、検討することが可能なはずです。しかし、これは厳密な意味で考古学になり得ません。なぜか。発掘調査による層位学的な検証が不可能だからです。

よって、考古学の検討の対象となる過去の社会と、経済学、法学、社会学等が対象とする現にある社会とを媒体として創発される領野との間には、差異が横たわっていると考えるのが妥当でしょう。

このように、諸学問は同じ社会的事象を対象としてもそれぞれ異なる準拠フレームを持っているが故に、相互に「機能的等価」とはならず、他の学問との境界を維持・再生産し続けます。 

私たち日本の考古学研究者は「型式学」という準拠フレームをもつという点でプロセス派、ポストプロセス派的な考古学との間に差異があり、それにより自己言及的な再生産を続けることができたのでした。 

別言すれば、私たち日本の考古学研究者はプロセス派、あるいはポストプロセス派的なフェーズとは(意図せざるものであったにせよ)距離をとることができたが故に、「型式学」の彫琢をその学問的な目的とすることができたとも考えられます。 

また、私たち日本の考古学研究者は「型式学」を通じてこそ有用な知の蓄積(=ゼマンティク)を提供することが可能なはずです。なぜなら、「型式学」という学問的制度を通じてなら、個別分野(ナイフ形石器・縄文土器・弥生墳丘墓・円筒埴輪・城郭等々の細別分野)を超えたコミュニケーションの広がりが予期できるからです。

価値観の共有(の結果としての俗流伝播主義考古学、唯物論的考古学、プロセス派的考古学、ポストプロセス派的考古学への細別化)ではなく制度への信頼(の結果としての型式学の体系化)にもとづく考古学こそが、私たち日本の考古学者が選ぶことができるであろう、現実的な選択肢ではないのでしょうか。

まったくもってゴリゴリ保守派の意見になってしまったようですが、決して変化を拒んでいるのではありません。ただ、どうせ変わるのなら、より多くの選択肢を創発できる方向に変わりたいと言っているだけです。

まぁ、私の一面的な曲解に過ぎない気もするので、まだお読みでない方は以下のリンクから是非どうぞ。

http://www.keisoshobo.co.jp/book/b376461.html

岡山城石山門石垣を3Dモデル化しました。



櫓門石垣を含めた岡山城石山門石垣の完全版です。画面中央手前が大手門から続く二の丸大手筋でした。門の入り口に高麗門が、枡形内部で一折れして櫓門をくぐって入城していました。

岡山城の西の丸南東に位置する門で、慶長8年に西の丸を築いて代政した、池田利隆により築かれたものとされます。

この石山門は昭和20年6月29日の岡山大空襲の際に焼失しました。この時点で岡山城内の櫓門の依存例はここしかなく、失われたことは無念の極みです。

隅角は算木積みの傾向がありますが、隅脇石との関係は不明瞭です。築石には多面割りによる打ち込み矧ぎのものと、野面のものが併用されますが、前者のほうが優勢です。傾斜角は71~74°とかなり急です。また、櫓門基部の石垣には幅2mを超える鏡石が見られます。一点だけですが、刻印石が見られます。また、転用材は一点もありません。

これら諸特徴から、乗岡実氏の岡山城4類と5a類の両方の特徴を持つとみてよく、慶長半ばに両型式が併用されていたとする氏の説を補強する材料となりそうです。

QGIS上で合成した石山門の位置
※下図は「OpenStreetMap and contributors、地図はCC BY-SA としてライセンス」である。



・・・giotiffが微妙にずれてる。どうやら直線的に動きながら写真を撮らないとうまく合成できないみたいですね。

2019年6月30日日曜日

下津井城の二の丸石垣をOpenDroneMapで3Dモデル化しました。



現在、個人的に調査を行っている倉敷市下津井城の二の丸石垣です。隅角は算木積みの指向性がありますが、角石の左右の振り分けが完全ではなく、専用の隅脇石もみられません。また、反りは緩い勾配がついています。

築石は多面割りとなっており、10cm、12cmの二種類の矢穴が見られます。また、刻印石もあります。積み方は乱れ積みですが、部分的に目地が通ります。

高さはおよそ3m。幅約20mにわたって残存していますが、北(写真向かって左)は部分的に破壊されていて、旧観をとどめません。ただし、城外北側に隅角部が残っているようで、もともとは西の丸からの侵入者をはばむ防御線をなしていたと考えられます。

下津井場内では数少ない隅角部の残る石垣だけに、この部分の特徴をきちんととらえていかないといけませんね。

2019年6月27日木曜日

OpenDroneMapによる三次元モデル生成実験2




facebookに投稿したものと同じですが、こちらでも共有しておきます。

国道2号バイパスの整備に伴い調査された、岡山市東区の浅川3号墳の組合式石棺です。現在は岡山県古代吉備文化財センターの敷地内に移築されています。

現状、OBJファイルの生成には成功したのですが、QGISに読み込むためのgiotiffがうまくできません。おそらくはGCPの設定だと思うので、ちょっと研究してみます。

2019年3月17日日曜日

今更ですが足守周辺で縄張り図を作成中です。

6月3日に迫った山陽新聞フォーラムに向けて、今頃調査中です。笑ってやってください。

仕事ではGPSを使って描いているのですが、個人的には歩測とレーザー測距機、コンパスを組み合わせれば十分に描けると思っています。

・・・ただ、IphoneのGPSで答え合わせはしていたりして。平面直角座標があると、QGISに簡単に取り込むことができるのですね。

宮路山城跡縄張り図
作成中の宮路山城跡縄張り図
https://c.sanyonews.jp/release/2019/02/20190212094325.html

「岡山の中世城館から迫る戦乱の世」ということで、発掘調査をまとめた発表を仰せつかりました。

岡山県内では赤磐市保木城跡や周匝茶臼山上跡などの戦国期山城の他、鏡野町久田堀之内遺跡や岡山市中島城跡などで平地城館の調査例があります。

鏡野町の城峪城跡、久田上原城跡、河内城跡、比丘尼ヶ城跡など、南北朝期の「城塞群」の調査例もあり、これは全国的に見ても貴重な例です。

大決戦となった備中高松城の戦いに際して築かれた、毛利方、織田方の両方の陣城・付城の調査例もあり、中世山城発達の歴史と多様性を知るにはもってこいの場所なのです。

さらにさらに、岡山城跡や備中松山城跡、津山城跡や下津井城跡など近世城郭でも調査例があります。特に岡山城跡では中世城館から織豊期における「礎石建物・瓦・石垣」の採用、そして寛永期と目される近世城郭としての完成過程が、層位的に明らかになっています。

これら全てを総括的に話すことなど私の手には到底余るので、トピックを絞って話そうかと。

結論から言ってしまえば、縄張り図研究と発掘調査は相互補完的な関係にあるということがいいたいのですが、そうなると縄張り図も描かないといけないことに。

というわけで、いまさらあわてて描いている次第です。なんとも情けない。やっぱり話を聞くなら、合戦のあった山城の方がドラマチックですよね。そんなわけで目下、足守周辺へ出撃中です。

備中高松城の戦いの前哨戦として、いわゆる境目七城を巡る攻防戦があったことはよく知られていますが、足守地区にあった冠山城跡と宮路山城跡の攻防戦は激戦であったらしく、先述したとおり毛利方、織田方の両方の付城、陣城が連なっている場所です。これら陣城、付城のいくつかが発掘調査されており、それについて話そうと思っています。

宮路山城跡と鍛冶山城跡(南から)
天正10年4月25日。足守地区の中央にある冠山城を落城させた羽柴・宇喜多連合軍は、宮路山城へ攻めかかります。このとき羽柴方の付城として築かれたのが鍛冶山城です。そして毛利方の退路を断つべく小陣屋跡、千引(あの千引かなくろ谷遺跡の千引です)砦跡などが宮路山城後背の阿曽地区の丘陵上に築かれました。

写真で見てわかるとおり、宮路山城と鍛冶山城は足守川を挟んで真っ正面の位置にあり、まさしく決戦!というにふさわしい状況です。

夜中に鉄砲打ちかけられたり大声出されたりしたらたまらんですよね、お互いに。

さあ、準備が発表まで間に合うかどうか。こちらも勝負ですね。

2019年1月7日月曜日

OpenDroneMapによる三次元モデル生成実験1


愛用のフラッシュメーターを三次元化してみました。やはりメモリが足りてなかったんですね。


--memory 4g 



を明示的に示せば、無事生成できました。Linuxなら8GBでも十分なようです。ところがterminalを見ると、


[WARNING] Georeferencing failed. Make sure your photos have geotags in the EXIF or you have provided a GCP file.
[WARNING] Georeferencing failed. Make sure your photos have geotags in the EXIF or you have provided a GCP file.
[INFO]    Running ODM Georeferencing Cell - Finished
[INFO]    Running ODM DEM Cell
[INFO]    Classify: False
[INFO]    Create DSM: False
[INFO]    Create DTM: False
[INFO]    DEM input file /code/odm_georeferencing/odm_georeferenced_model.laz found: False
[WARNING] DEM will not be generated
[INFO]    Running ODM DEM Cell - Finished
[INFO]    Running ODM Orthophoto Cell
[WARNING] Cannot calculate GSD, using requested resolution of 5.0
[DEBUG]   running /code/build/bin/odm_orthophoto -inputFile /code/odm_texturing_25d/odm_textured_model.obj -logFile /code/odm_orthophoto/odm_orthophoto_log.txt -outputFile /code/odm_orthophoto/odm_orthophoto.png -resolution 20.0  -outputCornerFile /code/odm_orthophoto/odm_orthophoto_corners.txt
Killed
Traceback (most recent call last):
  File "/code/run.py", line 47, in <module>
    plasm.execute(niter=1)
  File "/code/scripts/odm_orthophoto.py", line 94, in process
    '-outputCornerFile {corners}'.format(**kwargs))
  File "/code/opendm/system.py", line 34, in run
    raise Exception("Child returned {}".format(retcode))
Exception: Child returned 137



なるエラーを吐いてレンダリングが止まるので、何事かと思っていたら、geotagのない写真を読み込むと、このエラーが出て止まるようです。でもプロジェクトディレクトリの同一階層にはきちんとodm_texuringというディレクトリが作成されており、objファイルとmtlファイルほか、必要なファイルが全て生成されています。giotiffやgio_objが生成されていないだけです。ご安心を。 

うーん。やはり定点撮影が必要なのと、背景を消すパラメーターを渡さないとだめのようですね。もう少し、写真の撮り方を含めて研究しますか。

2019年1月6日日曜日

岡山城外下馬門櫓石垣の三次元オルソ画像をOpenDroneMapで作成しました

オープンソースなSfm/MVS(Structure from Motion / Multi-View Stereo)ソフトウェア、 OpenDroneMapを利用して、岡山城石垣の三次元オルソ画像を作成してみました。ひとまず、作成した画像をSketchfabにアップロードしたので、そちらをご覧ください。


回転させてもあんまり面白くはないけど、隅角部や築石のアップを見たり、石垣の角度を測ったりはできます。いろんな研究に使えそうですね。

外下馬門櫓は、岡山城二の丸大手口にあった櫓門のことです。現在は北側櫓台石垣と、内堀に沿って築かれた土塀の基礎石垣が残るのみですが、実際は南側にも櫓台石垣があり、さらに内堀に沿って南へ石垣が続いていました。そして櫓台をまたいで櫓門が設けられ、そこが岡山城二ノ丸内郭(東南の郭)への入り口となっていました。

岡山城絵図には「外目安御門」と書かれていることが多いのですが、一部の大身家臣以外はこの櫓門の手前で馬を下りなければならなかったことから、通称「外下馬門」と呼ばれます。

今は岡山県庁と岡山県立図書館の一角に当たっており、往時の姿は見る影もないですが、この門に向かって「外下馬門橋」がかけられ、その手前には「榎の馬場」と呼ばれる広場がありました。

「榎の馬場」の西は金川に陣屋を置く家老の日置氏、南は佐伯に陣屋を置く同じく家老の戸倉氏、そして門をくぐった先には虫明に陣屋を置く筆頭家老、伊木氏の屋敷地が広がっていました。まさに岡山城二の丸の中枢と言ってよい場所です。

本当はBlenderでも使って、土塀や櫓門を復元したデータを載せた方(ARですね)が面白いのですけど、ひとまず石垣の立面が見たかったもので。

私は持ってないですけどVRヘッドセットをつけてみたらどんな風に見えるのでしょうね。

技術的なことはあまり書いても面白くはないでしょうから、簡単に。この画像はDebian GNU/Linux 9.6.0上にDocker環境を作成、その上でOpenDroneMapを起動させ、作成したものです。 参考にさせていただいたリンクを張っておきますので、そちらをご参照ください。

1)Debian GNU/Linuxの概要や導入について

Debian -- ユニバーサルオペレーティングシステム
または、
Debian JP Project

2)Debian上にDocker環境を作成するには

上記のサイトの通りにすればできるのですが、事前にsudoの設定が必要です。Debian環境では基本、dockerの全てのコマンドの前にsudoコマンドをつけないと動きません。以下のサイトを参照させていただきました。


3)Docker上にOpenDroneMapを作成し、テストデータを作成するには

上記サイトに大変わかりやすくまとめてあります。Windows10(ただしHyperーVを利用するためProfessional版のみ)やMacをお使いの方もDockerさえ動けば利用できます。

基本的な操作はこのサイトでわかるので、その他のパラメーターについては以下のサイトを参照ください。

https://docs.opendronemap.org/using.html#command-line-arguments

参照させていただいた全ての皆様と、Open sourceテクノロジーに関わる技術者さまに感謝します。

というわけで、次回は写真画像(JPGファイル)を利用した3Dモデルの作成について紹介します。

2018年12月24日月曜日

鬼ノ身城へ行ってきました。

クリスマスイブですが、そんなこととは一切関係なく、総社市山田にある鬼ノ身城跡へ行ってきました。

主郭(一ノ壇)から総社平野が見えます。
主郭から総社平野方向を望む

城は総社市新本から北へ上った山塊頂部に位置し、玉島~松山(高梁)を繋ぐ間道を抑える要衝にあります。

この城は天正2(1574)~3(1575)年に三村氏と毛利氏の間で勃発した、「備中兵乱」の舞台となった場所です。この城の守将であった三村実親の非業の最期は語り草となっています。乱後は安芸国宍戸氏の城代が置かれ、関ヶ原戦後の毛利氏減封に伴い廃城となったと伝えられます。

主郭(一ノ壇)にある諏訪神社の様子。
主郭(一ノ壇)にある諏訪神社
最高地点に主郭(一ノ壇)を置き、ぐるっと山頂部を取り巻くように郭を連ねる連郭式山城です。その縄張りは俗に「扇の縄」などとも呼ばれます。

喰い違うように土塁が接し合っています。
十二ノ壇
見所の一つである十二ノ壇を紹介しましょう。どうやらこの部分が鬼ノ身城の入り口(虎口)のようで、二つの土塁が喰い違うように配されています。いずれも元々は石塁であったようで、1m弱の石材と栗石かと思われる礫がバラバラと散在しています。

レーザー墨出し機から赤い光線が出ています。
レーザー墨出し機を使った石垣実測

城域内に残る石垣は破城にあったらしくほとんど残っていません。しかし、十二ノ壇の東側に、法面に貼り付くように石垣が築かれています。栗石もある本格的な石垣です。
最近、職場で「どうやって一人で石垣を実測しているのか?」とよく聞かれるのですが、何のことはなくこうやっています。博物館で日通さんが使っていたレーザー墨出し機を使います。何でも覚えておけば使えるもんだ。
カメラの三脚に取り付けて水平を出します。すると水平・垂直方向に赤色レーザー光が発射されますので、それを割り付けにして測ります。大きな物は2台の墨出し機を使って、大まかに割り付け、各石の大きさと位置関係が損なわれないように気をつけつつ描くわけです。
一度水平さえ取れてしまえば、簡単に割り付けできます。というわけで、かなりアナログな方法で描いているのでした。ちなみに標高はスマートフォンのGPSを使って入れていますが、あんまり当てにならない様子。専用機を買った方が良さそうですね。

算木積みとなる隅角部
隅角部の様子
石垣の南東隅に隅角部の根石が残されているのを確認しました。うーん。算木積みになってるんですけど。どういうことなんでしょう?築石はすべて野面石ですが、隅角部の石と石が接する面の平滑度は高く、割取った石であるようです。ただし、矢穴はありません。上部が壊れているのは破城にあった痕跡なんでしょうかね。

猿掛城に続いて2例目か。どう理解すべきか課題ができましたね。

もう少し類例を増やして検討したいと思います。次はどの城にしようかな?

2018年12月17日月曜日

ふるさとの山城探訪のご報告ー備前国下津井城ー

少し前ですが、12月8日にふるさとの山城探訪という、古代吉備文化財センター主催の山城見学会に行ってきました。

当日は配布資料の作成と解説を仰せつかり、恥ずかしくも皆さんの前でお話した次第です。

下津井城は倉敷市児島の下津井地区北にそびえる標高90mの山頂にあります。西から「西の丸」、「二の丸」、「本丸」、「三の丸」の四つの曲輪からなります。下津井に今も残る円福寺の文書に
西の丸
西の丸(北から)
  文書によれば、もともと宇喜多氏による城番がおかれ砦が築かれたのがその起源だとされています。この時に城の縄張りがほぼ決まっていたようで、宇喜多時代(文禄期)と思われる野面積みの石垣が西の丸や本丸の天守周辺に残されています。
同文書中に慶長9(1604)~11(1606)年にかけて姫路城主に池田輝政の実弟、池田長政の手により修築がなされ、現在見るような総石垣の城へ変貌したことが記されます。輝政は将軍徳川家康の娘、督姫と結婚しており、その実子、つまり家康の外孫である忠継が岡山城主でした。ただ、忠継はこの時幼かったので、異父兄である利隆が岡山城に入り代成しました(利隆の備前監国)。
この時家康は西国監視のための城を築くことを望んでおり、長政にその内意を伝えて城の改修に当たらせたとされます。できあがった城は、周囲に6m以上(三の丸南は9m)を超える石垣を築き、守りを固めていました。
三の丸南の石垣
三の丸南の石垣(最も残存状況が良い)
この時築かれた天守閣を初めとする建築物は寛永16(1639)年に破城にあった際に倒されれ、失われてしまいましたが、石垣は城内の各所で現在も見ることができます。
西の丸の築石
西の丸の築石
築石に目を向けてみましょう。西の丸周辺には宇喜多氏段階のものと見られる野面積みの石垣が残っていることは既に述べました。大きさも不揃いで、1mを超えるものはありません。間詰め石も盛んに用いられています。高さも2m程度で、余り高いとは言えません。石材は地元産の花崗岩で、集めた石をポンポンと積んだだけの簡単なものです。ただ、裏込めとして栗石の充填が認められ、石垣であったことはまちがいありません。
三の丸南出隅石垣
三の丸南出隅石垣
一方、池田期の築石は矢穴痕跡を残す打ち込み矧ぎとなっています。大きさも縦40、横80cm程度にそろっており、その選択度は高いと言えます。また隅落としが盛んに用いられています。よく知られているようにこの技法は姫路城の天守丸や備前丸周辺でよく用いられるものです。しかし、姫路城の築石には下津井城のように自然石が混じることはありません。
東出丸の石垣隅角部
東出丸の石垣隅角部
次に隅角部を見てみましょう。宇喜多期の隅角はほとんど残っていないのですが、東出丸や天守閣周辺で見ることができます。写真で見るとおり、隅角は鋭角とはならず、鈍角となるシノギ積みが多用されています。このあたりは岡山城本丸や常山城本丸などと共通しており、宇喜多氏とその一門の築石技術の特徴と言って良いでしょう。傾斜はほとんど垂直です一応算木積みの志向があるのも岡山城などと同じです。材質は地山産の花崗岩です。
三の丸南出隅石垣隅角部
一方、池田期の隅角は二の丸西石垣と三の丸東石垣、そしてここ三の丸南出隅石垣で見ることができます。いずれも算木積みの指向は明確ですが、角脇石の充填が完全でなく、築石を兼ねている部分が見られます。傾斜は70°ほどで、反りがほとんど見られません。また算木積みの振り分けも甘く、慶長中頃の技術的限界を示しているのでしょう。材質は前代と同じく地元産花崗岩です。
逆に考えれれば、同じ池田氏が取り組んだ姫路城本丸周辺石垣(慶長14年竣工)や名古屋城本丸東南櫓台石垣(慶長15年竣工)の完成度が高すぎるのであり、たった数年しか時期が離れていないことを考えると、単純に時期差として良いかは慎重になった方がいいように思います。このあたりは岡山城の二の丸や石山周辺に残る石垣の実年代観を考える上でヒントになりそうですね。
西ノ丸から見た瀬戸内海
西ノ丸から見た瀬戸内海
さて、下津井城の西の丸の内部はまったく造成の手が入っておらず、露岩もそのままになっています。他の曲輪が平滑に造成されて言うことを思えば特殊な役割を担う曲輪であった可能性が高いと考えられます。ここからは瀬戸内海の眺望が大変に優れ、見張りにはもってこいです。ここから四国までは塩飽水道と呼ばれる海峡部分を経てたったの10kmしか離れておらず、城は瀬戸内海水運を握る要衝にあると言えるでしょう。
豊臣秀吉時代に備前国を治めていた豊臣氏一門衆、宇喜多秀家には毛利氏の抑えが期待されており、下津井城の築城が開始されたのだと考えられます。それを今度は徳川家康が、豊臣恩顧の大名達がひしめく西国監視の最前線の城として、徳川氏姻族の筆頭である池田氏に命令して改修させたのだと考えると、なんとも歴史の皮肉を想起させます。
いずれにせよ、豊臣時代から徳川時代の初頭にかけて西国監視を担う城として機能していたのは間違いないようです。そして慶長20(1615)年の豊臣家滅亡、福島正則の改易に続いて元和8(1622)年に備後国に徳川氏譜代の水野氏の居城、福山城が築城されると、その地政学的地位は下がり、後には先述の通り破城となったのでした。
なんとも数奇な歴史をたどった城ですが、結局、この城もまた戦火にさらされることにはならなかったのは幸運と言えるでしょう。
せっかく勉強したので、いずれ石垣の悉皆調査を行い、文章化しようかと目論んでおります。さてさて、今日はここまでで失礼します。

岡山城本丸下の段六十一雁木門石垣 by turbow76 on Sketchfab 岡山城本丸下の段の六十一雁木門石垣です。本段に設けられた門の袖石垣で、高さ2m近い立石、長さ3m以上の横立石を豪快に積んだ勇壮な石垣です。 旭川筋から直接...