2019年9月6日金曜日
2019年7月13日土曜日
岡山城二ノ丸の外下馬門櫓石垣をOpenDroneMapで3Dモデル化しました(その2)。
岡山城の外下馬門櫓石垣の3DモデルをOpenDroneMap 0.8.2で再生成してみました。
前回のバージョンから何回かのアップデートがありましたが、明らかに石垣隅角の形状や、築石のディテールがきちんと表現されるようになっていて、アップデートの進捗がうかがえます。
生成されたgiotiffをQGISにはめ込んでGIOリファレンスする限り、まだまだ実測図の代わりになるほどの正確さはないようですが、今後のアップデートに期待ができそうです。
ODM開発チームには、最大限の敬意を払いたいと思います。
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2019年7月12日金曜日
岡山城の西丸西手櫓石垣をOpenDroneMapで3Dモデル化しました。
岡山城現存櫓の一つ、西丸(にしのまる)西手櫓(:重要文化財)の基部石垣をOpenDroneMapにて三次元モデル化。
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| 西丸西手櫓と石垣 |
慶長8年。小早川秀秋亡き後、備前一国を拝領したのは後に西国将軍と称された池田輝政の息子にして、将軍徳川家康の外孫であった池田忠継でした。時に忠継は5歳。この時岡山城に入って代政したのが異母兄の池田利隆でした。これを利隆の「備前監国」といいます。
利隆は岡山城主ではなかったことを鑑み、ここ、西の丸を築いて入城したとされます。
この時、あわせて築かれたとされるのが、この西手櫓です。重箱形の隅櫓で、一階は二ヶ所の格子窓と石落とし、二階も格子窓があるのみです。見ての通り総白壁の塗籠め造りで、壁も厚く、重厚な造りです。岡山城の西端を守る要地にあるだけでなく、全国的に見ても慶長期半ばに遡る可能性をもつ、貴重な櫓の一つです。
さて、その基部となる石垣の築石は、多面を割る打ち込み矧ぎです。間詰め石はほとんど用いられず、自然石はほぼ見られません。石の法量は揃っています。また、横目地がよく通り、布積み傾向が顕著です。さらに、地山の削り残しとみられる巨岩が、あたかも鏡石のように見るものを威圧しています。
自然石が混じり、間詰め石も顕著に見られる石山門周辺の石垣とは、異なる様式を示します。ただ、単純に時期差と考えてよいかは、思案のしどころです。
とにもかくにも、慶長期に遡りうる櫓と石垣のセットが見られるのは、岡山城ではここだけですので、岡山城散策の際にはお見逃しなく。
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| QGIS上で合成した西丸西手櫓の位置 ※下図は「OpenStreetMap and contributors、地図はCC BY-SA としてライセンス」である |
2019年7月10日水曜日
岡山城石山門石垣を3Dモデル化しました。
櫓門石垣を含めた岡山城石山門石垣の完全版です。画面中央手前が大手門から続く二の丸大手筋でした。門の入り口に高麗門が、枡形内部で一折れして櫓門をくぐって入城していました。
岡山城の西の丸南東に位置する門で、慶長8年に西の丸を築いて代政した、池田利隆により築かれたものとされます。
この石山門は昭和20年6月29日の岡山大空襲の際に焼失しました。この時点で岡山城内の櫓門の依存例はここしかなく、失われたことは無念の極みです。
隅角は算木積みの傾向がありますが、隅脇石との関係は不明瞭です。築石には多面割りによる打ち込み矧ぎのものと、野面のものが併用されますが、前者のほうが優勢です。傾斜角は71~74°とかなり急です。また、櫓門基部の石垣には幅2mを超える鏡石が見られます。一点だけですが、刻印石が見られます。また、転用材は一点もありません。
これら諸特徴から、乗岡実氏の岡山城4類と5a類の両方の特徴を持つとみてよく、慶長半ばに両型式が併用されていたとする氏の説を補強する材料となりそうです。
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| QGIS上で合成した石山門の位置 ※下図は「OpenStreetMap and contributors、地図はCC BY-SA としてライセンス」である。 |
・・・giotiffが微妙にずれてる。どうやら直線的に動きながら写真を撮らないとうまく合成できないみたいですね。
2019年1月6日日曜日
岡山城外下馬門櫓石垣の三次元オルソ画像をOpenDroneMapで作成しました
オープンソースなSfm/MVS(Structure from Motion / Multi-View Stereo)ソフトウェア、
OpenDroneMapを利用して、岡山城石垣の三次元オルソ画像を作成してみました。ひとまず、作成した画像をSketchfabにアップロードしたので、そちらをご覧ください。
回転させてもあんまり面白くはないけど、隅角部や築石のアップを見たり、石垣の角度を測ったりはできます。いろんな研究に使えそうですね。
外下馬門櫓は、岡山城二の丸大手口にあった櫓門のことです。現在は北側櫓台石垣と、内堀に沿って築かれた土塀の基礎石垣が残るのみですが、実際は南側にも櫓台石垣があり、さらに内堀に沿って南へ石垣が続いていました。そして櫓台をまたいで櫓門が設けられ、そこが岡山城二ノ丸内郭(東南の郭)への入り口となっていました。
岡山城絵図には「外目安御門」と書かれていることが多いのですが、一部の大身家臣以外はこの櫓門の手前で馬を下りなければならなかったことから、通称「外下馬門」と呼ばれます。
今は岡山県庁と岡山県立図書館の一角に当たっており、往時の姿は見る影もないですが、この門に向かって「外下馬門橋」がかけられ、その手前には「榎の馬場」と呼ばれる広場がありました。
「榎の馬場」の西は金川に陣屋を置く家老の日置氏、南は佐伯に陣屋を置く同じく家老の戸倉氏、そして門をくぐった先には虫明に陣屋を置く筆頭家老、伊木氏の屋敷地が広がっていました。まさに岡山城二の丸の中枢と言ってよい場所です。
本当はBlenderでも使って、土塀や櫓門を復元したデータを載せた方(ARですね)が面白いのですけど、ひとまず石垣の立面が見たかったもので。
私は持ってないですけどVRヘッドセットをつけてみたらどんな風に見えるのでしょうね。
技術的なことはあまり書いても面白くはないでしょうから、簡単に。この画像はDebian GNU/Linux 9.6.0上にDocker環境を作成、その上でOpenDroneMapを起動させ、作成したものです。 参考にさせていただいたリンクを張っておきますので、そちらをご参照ください。
1)Debian GNU/Linuxの概要や導入について
Debian -- ユニバーサルオペレーティングシステム
または、
Debian JP Project
外下馬門櫓は、岡山城二の丸大手口にあった櫓門のことです。現在は北側櫓台石垣と、内堀に沿って築かれた土塀の基礎石垣が残るのみですが、実際は南側にも櫓台石垣があり、さらに内堀に沿って南へ石垣が続いていました。そして櫓台をまたいで櫓門が設けられ、そこが岡山城二ノ丸内郭(東南の郭)への入り口となっていました。
岡山城絵図には「外目安御門」と書かれていることが多いのですが、一部の大身家臣以外はこの櫓門の手前で馬を下りなければならなかったことから、通称「外下馬門」と呼ばれます。
今は岡山県庁と岡山県立図書館の一角に当たっており、往時の姿は見る影もないですが、この門に向かって「外下馬門橋」がかけられ、その手前には「榎の馬場」と呼ばれる広場がありました。
「榎の馬場」の西は金川に陣屋を置く家老の日置氏、南は佐伯に陣屋を置く同じく家老の戸倉氏、そして門をくぐった先には虫明に陣屋を置く筆頭家老、伊木氏の屋敷地が広がっていました。まさに岡山城二の丸の中枢と言ってよい場所です。
本当はBlenderでも使って、土塀や櫓門を復元したデータを載せた方(ARですね)が面白いのですけど、ひとまず石垣の立面が見たかったもので。
私は持ってないですけどVRヘッドセットをつけてみたらどんな風に見えるのでしょうね。
技術的なことはあまり書いても面白くはないでしょうから、簡単に。この画像はDebian GNU/Linux 9.6.0上にDocker環境を作成、その上でOpenDroneMapを起動させ、作成したものです。 参考にさせていただいたリンクを張っておきますので、そちらをご参照ください。
1)Debian GNU/Linuxの概要や導入について
Debian -- ユニバーサルオペレーティングシステム
または、
Debian JP Project
2)Debian上にDocker環境を作成するには
上記のサイトの通りにすればできるのですが、事前にsudoの設定が必要です。Debian環境では基本、dockerの全てのコマンドの前にsudoコマンドをつけないと動きません。以下のサイトを参照させていただきました。
3)Docker上にOpenDroneMapを作成し、テストデータを作成するには
上記サイトに大変わかりやすくまとめてあります。Windows10(ただしHyperーVを利用するためProfessional版のみ)やMacをお使いの方もDockerさえ動けば利用できます。
基本的な操作はこのサイトでわかるので、その他のパラメーターについては以下のサイトを参照ください。
https://docs.opendronemap.org/using.html#command-line-arguments
参照させていただいた全ての皆様と、Open sourceテクノロジーに関わる技術者さまに感謝します。
というわけで、次回は写真画像(JPGファイル)を利用した3Dモデルの作成について紹介します。
https://docs.opendronemap.org/using.html#command-line-arguments
参照させていただいた全ての皆様と、Open sourceテクノロジーに関わる技術者さまに感謝します。
というわけで、次回は写真画像(JPGファイル)を利用した3Dモデルの作成について紹介します。
2018年12月24日月曜日
鬼ノ身城へ行ってきました。
クリスマスイブですが、そんなこととは一切関係なく、総社市山田にある鬼ノ身城跡へ行ってきました。
城は総社市新本から北へ上った山塊頂部に位置し、玉島~松山(高梁)を繋ぐ間道を抑える要衝にあります。
この城は天正2(1574)~3(1575)年に三村氏と毛利氏の間で勃発した、「備中兵乱」の舞台となった場所です。この城の守将であった三村実親の非業の最期は語り草となっています。乱後は安芸国宍戸氏の城代が置かれ、関ヶ原戦後の毛利氏減封に伴い廃城となったと伝えられます。
最高地点に主郭(一ノ壇)を置き、ぐるっと山頂部を取り巻くように郭を連ねる連郭式山城です。その縄張りは俗に「扇の縄」などとも呼ばれます。
見所の一つである十二ノ壇を紹介しましょう。どうやらこの部分が鬼ノ身城の入り口(虎口)のようで、二つの土塁が喰い違うように配されています。いずれも元々は石塁であったようで、1m弱の石材と栗石かと思われる礫がバラバラと散在しています。
城域内に残る石垣は破城にあったらしくほとんど残っていません。しかし、十二ノ壇の東側に、法面に貼り付くように石垣が築かれています。栗石もある本格的な石垣です。
最近、職場で「どうやって一人で石垣を実測しているのか?」とよく聞かれるのですが、何のことはなくこうやっています。博物館で日通さんが使っていたレーザー墨出し機を使います。何でも覚えておけば使えるもんだ。
カメラの三脚に取り付けて水平を出します。すると水平・垂直方向に赤色レーザー光が発射されますので、それを割り付けにして測ります。大きな物は2台の墨出し機を使って、大まかに割り付け、各石の大きさと位置関係が損なわれないように気をつけつつ描くわけです。
一度水平さえ取れてしまえば、簡単に割り付けできます。というわけで、かなりアナログな方法で描いているのでした。ちなみに標高はスマートフォンのGPSを使って入れていますが、あんまり当てにならない様子。専用機を買った方が良さそうですね。
石垣の南東隅に隅角部の根石が残されているのを確認しました。うーん。算木積みになってるんですけど。どういうことなんでしょう?築石はすべて野面石ですが、隅角部の石と石が接する面の平滑度は高く、割取った石であるようです。ただし、矢穴はありません。上部が壊れているのは破城にあった痕跡なんでしょうかね。
猿掛城に続いて2例目か。どう理解すべきか課題ができましたね。
もう少し類例を増やして検討したいと思います。次はどの城にしようかな?
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| 主郭から総社平野方向を望む |
城は総社市新本から北へ上った山塊頂部に位置し、玉島~松山(高梁)を繋ぐ間道を抑える要衝にあります。
この城は天正2(1574)~3(1575)年に三村氏と毛利氏の間で勃発した、「備中兵乱」の舞台となった場所です。この城の守将であった三村実親の非業の最期は語り草となっています。乱後は安芸国宍戸氏の城代が置かれ、関ヶ原戦後の毛利氏減封に伴い廃城となったと伝えられます。
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| 主郭(一ノ壇)にある諏訪神社 |
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| 十二ノ壇 |
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| レーザー墨出し機を使った石垣実測 |
城域内に残る石垣は破城にあったらしくほとんど残っていません。しかし、十二ノ壇の東側に、法面に貼り付くように石垣が築かれています。栗石もある本格的な石垣です。
最近、職場で「どうやって一人で石垣を実測しているのか?」とよく聞かれるのですが、何のことはなくこうやっています。博物館で日通さんが使っていたレーザー墨出し機を使います。何でも覚えておけば使えるもんだ。
カメラの三脚に取り付けて水平を出します。すると水平・垂直方向に赤色レーザー光が発射されますので、それを割り付けにして測ります。大きな物は2台の墨出し機を使って、大まかに割り付け、各石の大きさと位置関係が損なわれないように気をつけつつ描くわけです。
一度水平さえ取れてしまえば、簡単に割り付けできます。というわけで、かなりアナログな方法で描いているのでした。ちなみに標高はスマートフォンのGPSを使って入れていますが、あんまり当てにならない様子。専用機を買った方が良さそうですね。
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| 隅角部の様子 |
猿掛城に続いて2例目か。どう理解すべきか課題ができましたね。
もう少し類例を増やして検討したいと思います。次はどの城にしようかな?
2018年12月17日月曜日
ふるさとの山城探訪のご報告ー備前国下津井城ー
少し前ですが、12月8日にふるさとの山城探訪という、古代吉備文化財センター主催の山城見学会に行ってきました。
当日は配布資料の作成と解説を仰せつかり、恥ずかしくも皆さんの前でお話した次第です。
下津井城は倉敷市児島の下津井地区北にそびえる標高90mの山頂にあります。西から「西の丸」、「二の丸」、「本丸」、「三の丸」の四つの曲輪からなります。下津井に今も残る円福寺の文書に
文書によれば、もともと宇喜多氏による城番がおかれ砦が築かれたのがその起源だとされています。この時に城の縄張りがほぼ決まっていたようで、宇喜多時代(文禄期)と思われる野面積みの石垣が西の丸や本丸の天守周辺に残されています。
同文書中に慶長9(1604)~11(1606)年にかけて姫路城主に池田輝政の実弟、池田長政の手により修築がなされ、現在見るような総石垣の城へ変貌したことが記されます。輝政は将軍徳川家康の娘、督姫と結婚しており、その実子、つまり家康の外孫である忠継が岡山城主でした。ただ、忠継はこの時幼かったので、異父兄である利隆が岡山城に入り代成しました(利隆の備前監国)。
この時家康は西国監視のための城を築くことを望んでおり、長政にその内意を伝えて城の改修に当たらせたとされます。できあがった城は、周囲に6m以上(三の丸南は9m)を超える石垣を築き、守りを固めていました。
この時築かれた天守閣を初めとする建築物は寛永16(1639)年に破城にあった際に倒されれ、失われてしまいましたが、石垣は城内の各所で現在も見ることができます。
築石に目を向けてみましょう。西の丸周辺には宇喜多氏段階のものと見られる野面積みの石垣が残っていることは既に述べました。大きさも不揃いで、1mを超えるものはありません。間詰め石も盛んに用いられています。高さも2m程度で、余り高いとは言えません。石材は地元産の花崗岩で、集めた石をポンポンと積んだだけの簡単なものです。ただ、裏込めとして栗石の充填が認められ、石垣であったことはまちがいありません。
次に隅角部を見てみましょう。宇喜多期の隅角はほとんど残っていないのですが、東出丸や天守閣周辺で見ることができます。写真で見るとおり、隅角は鋭角とはならず、鈍角となるシノギ積みが多用されています。このあたりは岡山城本丸や常山城本丸などと共通しており、宇喜多氏とその一門の築石技術の特徴と言って良いでしょう。傾斜はほとんど垂直です一応算木積みの志向があるのも岡山城などと同じです。材質は地山産の花崗岩です。
さて、下津井城の西の丸の内部はまったく造成の手が入っておらず、露岩もそのままになっています。他の曲輪が平滑に造成されて言うことを思えば特殊な役割を担う曲輪であった可能性が高いと考えられます。ここからは瀬戸内海の眺望が大変に優れ、見張りにはもってこいです。ここから四国までは塩飽水道と呼ばれる海峡部分を経てたったの10kmしか離れておらず、城は瀬戸内海水運を握る要衝にあると言えるでしょう。
豊臣秀吉時代に備前国を治めていた豊臣氏一門衆、宇喜多秀家には毛利氏の抑えが期待されており、下津井城の築城が開始されたのだと考えられます。それを今度は徳川家康が、豊臣恩顧の大名達がひしめく西国監視の最前線の城として、徳川氏姻族の筆頭である池田氏に命令して改修させたのだと考えると、なんとも歴史の皮肉を想起させます。
いずれにせよ、豊臣時代から徳川時代の初頭にかけて西国監視を担う城として機能していたのは間違いないようです。そして慶長20(1615)年の豊臣家滅亡、福島正則の改易に続いて元和8(1622)年に備後国に徳川氏譜代の水野氏の居城、福山城が築城されると、その地政学的地位は下がり、後には先述の通り破城となったのでした。
なんとも数奇な歴史をたどった城ですが、結局、この城もまた戦火にさらされることにはならなかったのは幸運と言えるでしょう。
せっかく勉強したので、いずれ石垣の悉皆調査を行い、文章化しようかと目論んでおります。さてさて、今日はここまでで失礼します。
当日は配布資料の作成と解説を仰せつかり、恥ずかしくも皆さんの前でお話した次第です。
下津井城は倉敷市児島の下津井地区北にそびえる標高90mの山頂にあります。西から「西の丸」、「二の丸」、「本丸」、「三の丸」の四つの曲輪からなります。下津井に今も残る円福寺の文書に
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| 西の丸(北から) |
同文書中に慶長9(1604)~11(1606)年にかけて姫路城主に池田輝政の実弟、池田長政の手により修築がなされ、現在見るような総石垣の城へ変貌したことが記されます。輝政は将軍徳川家康の娘、督姫と結婚しており、その実子、つまり家康の外孫である忠継が岡山城主でした。ただ、忠継はこの時幼かったので、異父兄である利隆が岡山城に入り代成しました(利隆の備前監国)。
この時家康は西国監視のための城を築くことを望んでおり、長政にその内意を伝えて城の改修に当たらせたとされます。できあがった城は、周囲に6m以上(三の丸南は9m)を超える石垣を築き、守りを固めていました。
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| 三の丸南の石垣(最も残存状況が良い) |
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| 西の丸の築石 |
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| 三の丸南出隅石垣 |
一方、池田期の築石は矢穴痕跡を残す打ち込み矧ぎとなっています。大きさも縦40、横80cm程度にそろっており、その選択度は高いと言えます。また隅落としが盛んに用いられています。よく知られているようにこの技法は姫路城の天守丸や備前丸周辺でよく用いられるものです。しかし、姫路城の築石には下津井城のように自然石が混じることはありません。
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| 東出丸の石垣隅角部 |
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| 三の丸南出隅石垣隅角部 |
一方、池田期の隅角は二の丸西石垣と三の丸東石垣、そしてここ三の丸南出隅石垣で見ることができます。いずれも算木積みの指向は明確ですが、角脇石の充填が完全でなく、築石を兼ねている部分が見られます。傾斜は70°ほどで、反りがほとんど見られません。また算木積みの振り分けも甘く、慶長中頃の技術的限界を示しているのでしょう。材質は前代と同じく地元産花崗岩です。
逆に考えれれば、同じ池田氏が取り組んだ姫路城本丸周辺石垣(慶長14年竣工)や名古屋城本丸東南櫓台石垣(慶長15年竣工)の完成度が高すぎるのであり、たった数年しか時期が離れていないことを考えると、単純に時期差として良いかは慎重になった方がいいように思います。このあたりは岡山城の二の丸や石山周辺に残る石垣の実年代観を考える上でヒントになりそうですね。
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| 西ノ丸から見た瀬戸内海 |
豊臣秀吉時代に備前国を治めていた豊臣氏一門衆、宇喜多秀家には毛利氏の抑えが期待されており、下津井城の築城が開始されたのだと考えられます。それを今度は徳川家康が、豊臣恩顧の大名達がひしめく西国監視の最前線の城として、徳川氏姻族の筆頭である池田氏に命令して改修させたのだと考えると、なんとも歴史の皮肉を想起させます。
いずれにせよ、豊臣時代から徳川時代の初頭にかけて西国監視を担う城として機能していたのは間違いないようです。そして慶長20(1615)年の豊臣家滅亡、福島正則の改易に続いて元和8(1622)年に備後国に徳川氏譜代の水野氏の居城、福山城が築城されると、その地政学的地位は下がり、後には先述の通り破城となったのでした。
なんとも数奇な歴史をたどった城ですが、結局、この城もまた戦火にさらされることにはならなかったのは幸運と言えるでしょう。
せっかく勉強したので、いずれ石垣の悉皆調査を行い、文章化しようかと目論んでおります。さてさて、今日はここまでで失礼します。
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