当日は配布資料の作成と解説を仰せつかり、恥ずかしくも皆さんの前でお話した次第です。
下津井城は倉敷市児島の下津井地区北にそびえる標高90mの山頂にあります。西から「西の丸」、「二の丸」、「本丸」、「三の丸」の四つの曲輪からなります。下津井に今も残る円福寺の文書に
西の丸(北から) |
同文書中に慶長9(1604)~11(1606)年にかけて姫路城主に池田輝政の実弟、池田長政の手により修築がなされ、現在見るような総石垣の城へ変貌したことが記されます。輝政は将軍徳川家康の娘、督姫と結婚しており、その実子、つまり家康の外孫である忠継が岡山城主でした。ただ、忠継はこの時幼かったので、異父兄である利隆が岡山城に入り代成しました(利隆の備前監国)。
この時家康は西国監視のための城を築くことを望んでおり、長政にその内意を伝えて城の改修に当たらせたとされます。できあがった城は、周囲に6m以上(三の丸南は9m)を超える石垣を築き、守りを固めていました。
三の丸南の石垣(最も残存状況が良い) |
西の丸の築石 |
三の丸南出隅石垣 |
一方、池田期の築石は矢穴痕跡を残す打ち込み矧ぎとなっています。大きさも縦40、横80cm程度にそろっており、その選択度は高いと言えます。また隅落としが盛んに用いられています。よく知られているようにこの技法は姫路城の天守丸や備前丸周辺でよく用いられるものです。しかし、姫路城の築石には下津井城のように自然石が混じることはありません。
東出丸の石垣隅角部 |
三の丸南出隅石垣隅角部 |
一方、池田期の隅角は二の丸西石垣と三の丸東石垣、そしてここ三の丸南出隅石垣で見ることができます。いずれも算木積みの指向は明確ですが、角脇石の充填が完全でなく、築石を兼ねている部分が見られます。傾斜は70°ほどで、反りがほとんど見られません。また算木積みの振り分けも甘く、慶長中頃の技術的限界を示しているのでしょう。材質は前代と同じく地元産花崗岩です。
逆に考えれれば、同じ池田氏が取り組んだ姫路城本丸周辺石垣(慶長14年竣工)や名古屋城本丸東南櫓台石垣(慶長15年竣工)の完成度が高すぎるのであり、たった数年しか時期が離れていないことを考えると、単純に時期差として良いかは慎重になった方がいいように思います。このあたりは岡山城の二の丸や石山周辺に残る石垣の実年代観を考える上でヒントになりそうですね。
西ノ丸から見た瀬戸内海 |
豊臣秀吉時代に備前国を治めていた豊臣氏一門衆、宇喜多秀家には毛利氏の抑えが期待されており、下津井城の築城が開始されたのだと考えられます。それを今度は徳川家康が、豊臣恩顧の大名達がひしめく西国監視の最前線の城として、徳川氏姻族の筆頭である池田氏に命令して改修させたのだと考えると、なんとも歴史の皮肉を想起させます。
いずれにせよ、豊臣時代から徳川時代の初頭にかけて西国監視を担う城として機能していたのは間違いないようです。そして慶長20(1615)年の豊臣家滅亡、福島正則の改易に続いて元和8(1622)年に備後国に徳川氏譜代の水野氏の居城、福山城が築城されると、その地政学的地位は下がり、後には先述の通り破城となったのでした。
なんとも数奇な歴史をたどった城ですが、結局、この城もまた戦火にさらされることにはならなかったのは幸運と言えるでしょう。
せっかく勉強したので、いずれ石垣の悉皆調査を行い、文章化しようかと目論んでおります。さてさて、今日はここまでで失礼します。
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