少し前ですが、12月8日にふるさとの山城探訪という、古代吉備文化財センター主催の山城見学会に行ってきました。
当日は配布資料の作成と解説を仰せつかり、恥ずかしくも皆さんの前でお話した次第です。
下津井城は倉敷市児島の下津井地区北にそびえる標高90mの山頂にあります。西から「西の丸」、「二の丸」、「本丸」、「三の丸」の四つの曲輪からなります。下津井に今も残る円福寺の文書に
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西の丸(北から) |
文書によれば、もともと宇喜多氏による城番がおかれ砦が築かれたのがその起源だとされています。この時に城の縄張りがほぼ決まっていたようで、宇喜多時代(文禄期)と思われる野面積みの石垣が西の丸や本丸の天守周辺に残されています。
同文書中に慶長9(1604)~11(1606)年にかけて姫路城主に池田輝政の実弟、池田長政の手により修築がなされ、現在見るような総石垣の城へ変貌したことが記されます。輝政は将軍徳川家康の娘、督姫と結婚しており、その実子、つまり家康の外孫である忠継が岡山城主でした。ただ、忠継はこの時幼かったので、異父兄である利隆が岡山城に入り代成しました(利隆の備前監国)。
この時家康は西国監視のための城を築くことを望んでおり、長政にその内意を伝えて城の改修に当たらせたとされます。できあがった城は、周囲に6m以上(三の丸南は9m)を超える石垣を築き、守りを固めていました。
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三の丸南の石垣(最も残存状況が良い) |
この時築かれた天守閣を初めとする建築物は寛永16(1639)年に破城にあった際に倒されれ、失われてしまいましたが、石垣は城内の各所で現在も見ることができます。
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西の丸の築石 |
築石に目を向けてみましょう。西の丸周辺には宇喜多氏段階のものと見られる野面積みの石垣が残っていることは既に述べました。大きさも不揃いで、1mを超えるものはありません。間詰め石も盛んに用いられています。高さも2m程度で、余り高いとは言えません。石材は地元産の花崗岩で、集めた石をポンポンと積んだだけの簡単なものです。ただ、裏込めとして栗石の充填が認められ、石垣であったことはまちがいありません。
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三の丸南出隅石垣 |
一方、池田期の築石は矢穴痕跡を残す打ち込み矧ぎとなっています。大きさも縦40、横80cm程度にそろっており、その選択度は高いと言えます。また隅落としが盛んに用いられています。よく知られているようにこの技法は姫路城の天守丸や備前丸周辺でよく用いられるものです。しかし、姫路城の築石には下津井城のように自然石が混じることはありません。
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東出丸の石垣隅角部 |
次に隅角部を見てみましょう。宇喜多期の隅角はほとんど残っていないのですが、東出丸や天守閣周辺で見ることができます。写真で見るとおり、隅角は鋭角とはならず、鈍角となるシノギ積みが多用されています。このあたりは岡山城本丸や常山城本丸などと共通しており、宇喜多氏とその一門の築石技術の特徴と言って良いでしょう。傾斜はほとんど垂直です一応算木積みの志向があるのも岡山城などと同じです。材質は地山産の花崗岩です。
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三の丸南出隅石垣隅角部 |
一方、池田期の隅角は二の丸西石垣と三の丸東石垣、そしてここ三の丸南出隅石垣で見ることができます。いずれも算木積みの指向は明確ですが、角脇石の充填が完全でなく、築石を兼ねている部分が見られます。傾斜は70°ほどで、反りがほとんど見られません。また算木積みの振り分けも甘く、慶長中頃の技術的限界を示しているのでしょう。材質は前代と同じく地元産花崗岩です。
逆に考えれれば、同じ池田氏が取り組んだ姫路城本丸周辺石垣(慶長14年竣工)や名古屋城本丸東南櫓台石垣(慶長15年竣工)の完成度が高すぎるのであり、たった数年しか時期が離れていないことを考えると、単純に時期差として良いかは慎重になった方がいいように思います。このあたりは岡山城の二の丸や石山周辺に残る石垣の実年代観を考える上でヒントになりそうですね。
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西ノ丸から見た瀬戸内海 |
さて、下津井城の西の丸の内部はまったく造成の手が入っておらず、露岩もそのままになっています。他の曲輪が平滑に造成されて言うことを思えば特殊な役割を担う曲輪であった可能性が高いと考えられます。ここからは瀬戸内海の眺望が大変に優れ、見張りにはもってこいです。ここから四国までは塩飽水道と呼ばれる海峡部分を経てたったの10kmしか離れておらず、城は瀬戸内海水運を握る要衝にあると言えるでしょう。
豊臣秀吉時代に備前国を治めていた豊臣氏一門衆、宇喜多秀家には毛利氏の抑えが期待されており、下津井城の築城が開始されたのだと考えられます。それを今度は徳川家康が、豊臣恩顧の大名達がひしめく西国監視の最前線の城として、徳川氏姻族の筆頭である池田氏に命令して改修させたのだと考えると、なんとも歴史の皮肉を想起させます。
いずれにせよ、豊臣時代から徳川時代の初頭にかけて西国監視を担う城として機能していたのは間違いないようです。そして慶長20(1615)年の豊臣家滅亡、福島正則の改易に続いて元和8(1622)年に備後国に徳川氏譜代の水野氏の居城、福山城が築城されると、その地政学的地位は下がり、後には先述の通り破城となったのでした。
なんとも数奇な歴史をたどった城ですが、結局、この城もまた戦火にさらされることにはならなかったのは幸運と言えるでしょう。
せっかく勉強したので、いずれ石垣の悉皆調査を行い、文章化しようかと目論んでおります。さてさて、今日はここまでで失礼します。