2018年12月24日月曜日

鬼ノ身城へ行ってきました。

クリスマスイブですが、そんなこととは一切関係なく、総社市山田にある鬼ノ身城跡へ行ってきました。

主郭(一ノ壇)から総社平野が見えます。
主郭から総社平野方向を望む

城は総社市新本から北へ上った山塊頂部に位置し、玉島~松山(高梁)を繋ぐ間道を抑える要衝にあります。

この城は天正2(1574)~3(1575)年に三村氏と毛利氏の間で勃発した、「備中兵乱」の舞台となった場所です。この城の守将であった三村実親の非業の最期は語り草となっています。乱後は安芸国宍戸氏の城代が置かれ、関ヶ原戦後の毛利氏減封に伴い廃城となったと伝えられます。

主郭(一ノ壇)にある諏訪神社の様子。
主郭(一ノ壇)にある諏訪神社
最高地点に主郭(一ノ壇)を置き、ぐるっと山頂部を取り巻くように郭を連ねる連郭式山城です。その縄張りは俗に「扇の縄」などとも呼ばれます。

喰い違うように土塁が接し合っています。
十二ノ壇
見所の一つである十二ノ壇を紹介しましょう。どうやらこの部分が鬼ノ身城の入り口(虎口)のようで、二つの土塁が喰い違うように配されています。いずれも元々は石塁であったようで、1m弱の石材と栗石かと思われる礫がバラバラと散在しています。

レーザー墨出し機から赤い光線が出ています。
レーザー墨出し機を使った石垣実測

城域内に残る石垣は破城にあったらしくほとんど残っていません。しかし、十二ノ壇の東側に、法面に貼り付くように石垣が築かれています。栗石もある本格的な石垣です。
最近、職場で「どうやって一人で石垣を実測しているのか?」とよく聞かれるのですが、何のことはなくこうやっています。博物館で日通さんが使っていたレーザー墨出し機を使います。何でも覚えておけば使えるもんだ。
カメラの三脚に取り付けて水平を出します。すると水平・垂直方向に赤色レーザー光が発射されますので、それを割り付けにして測ります。大きな物は2台の墨出し機を使って、大まかに割り付け、各石の大きさと位置関係が損なわれないように気をつけつつ描くわけです。
一度水平さえ取れてしまえば、簡単に割り付けできます。というわけで、かなりアナログな方法で描いているのでした。ちなみに標高はスマートフォンのGPSを使って入れていますが、あんまり当てにならない様子。専用機を買った方が良さそうですね。

算木積みとなる隅角部
隅角部の様子
石垣の南東隅に隅角部の根石が残されているのを確認しました。うーん。算木積みになってるんですけど。どういうことなんでしょう?築石はすべて野面石ですが、隅角部の石と石が接する面の平滑度は高く、割取った石であるようです。ただし、矢穴はありません。上部が壊れているのは破城にあった痕跡なんでしょうかね。

猿掛城に続いて2例目か。どう理解すべきか課題ができましたね。

もう少し類例を増やして検討したいと思います。次はどの城にしようかな?

2018年12月17日月曜日

ふるさとの山城探訪のご報告ー備前国下津井城ー

少し前ですが、12月8日にふるさとの山城探訪という、古代吉備文化財センター主催の山城見学会に行ってきました。

当日は配布資料の作成と解説を仰せつかり、恥ずかしくも皆さんの前でお話した次第です。

下津井城は倉敷市児島の下津井地区北にそびえる標高90mの山頂にあります。西から「西の丸」、「二の丸」、「本丸」、「三の丸」の四つの曲輪からなります。下津井に今も残る円福寺の文書に
西の丸
西の丸(北から)
  文書によれば、もともと宇喜多氏による城番がおかれ砦が築かれたのがその起源だとされています。この時に城の縄張りがほぼ決まっていたようで、宇喜多時代(文禄期)と思われる野面積みの石垣が西の丸や本丸の天守周辺に残されています。
同文書中に慶長9(1604)~11(1606)年にかけて姫路城主に池田輝政の実弟、池田長政の手により修築がなされ、現在見るような総石垣の城へ変貌したことが記されます。輝政は将軍徳川家康の娘、督姫と結婚しており、その実子、つまり家康の外孫である忠継が岡山城主でした。ただ、忠継はこの時幼かったので、異父兄である利隆が岡山城に入り代成しました(利隆の備前監国)。
この時家康は西国監視のための城を築くことを望んでおり、長政にその内意を伝えて城の改修に当たらせたとされます。できあがった城は、周囲に6m以上(三の丸南は9m)を超える石垣を築き、守りを固めていました。
三の丸南の石垣
三の丸南の石垣(最も残存状況が良い)
この時築かれた天守閣を初めとする建築物は寛永16(1639)年に破城にあった際に倒されれ、失われてしまいましたが、石垣は城内の各所で現在も見ることができます。
西の丸の築石
西の丸の築石
築石に目を向けてみましょう。西の丸周辺には宇喜多氏段階のものと見られる野面積みの石垣が残っていることは既に述べました。大きさも不揃いで、1mを超えるものはありません。間詰め石も盛んに用いられています。高さも2m程度で、余り高いとは言えません。石材は地元産の花崗岩で、集めた石をポンポンと積んだだけの簡単なものです。ただ、裏込めとして栗石の充填が認められ、石垣であったことはまちがいありません。
三の丸南出隅石垣
三の丸南出隅石垣
一方、池田期の築石は矢穴痕跡を残す打ち込み矧ぎとなっています。大きさも縦40、横80cm程度にそろっており、その選択度は高いと言えます。また隅落としが盛んに用いられています。よく知られているようにこの技法は姫路城の天守丸や備前丸周辺でよく用いられるものです。しかし、姫路城の築石には下津井城のように自然石が混じることはありません。
東出丸の石垣隅角部
東出丸の石垣隅角部
次に隅角部を見てみましょう。宇喜多期の隅角はほとんど残っていないのですが、東出丸や天守閣周辺で見ることができます。写真で見るとおり、隅角は鋭角とはならず、鈍角となるシノギ積みが多用されています。このあたりは岡山城本丸や常山城本丸などと共通しており、宇喜多氏とその一門の築石技術の特徴と言って良いでしょう。傾斜はほとんど垂直です一応算木積みの志向があるのも岡山城などと同じです。材質は地山産の花崗岩です。
三の丸南出隅石垣隅角部
一方、池田期の隅角は二の丸西石垣と三の丸東石垣、そしてここ三の丸南出隅石垣で見ることができます。いずれも算木積みの指向は明確ですが、角脇石の充填が完全でなく、築石を兼ねている部分が見られます。傾斜は70°ほどで、反りがほとんど見られません。また算木積みの振り分けも甘く、慶長中頃の技術的限界を示しているのでしょう。材質は前代と同じく地元産花崗岩です。
逆に考えれれば、同じ池田氏が取り組んだ姫路城本丸周辺石垣(慶長14年竣工)や名古屋城本丸東南櫓台石垣(慶長15年竣工)の完成度が高すぎるのであり、たった数年しか時期が離れていないことを考えると、単純に時期差として良いかは慎重になった方がいいように思います。このあたりは岡山城の二の丸や石山周辺に残る石垣の実年代観を考える上でヒントになりそうですね。
西ノ丸から見た瀬戸内海
西ノ丸から見た瀬戸内海
さて、下津井城の西の丸の内部はまったく造成の手が入っておらず、露岩もそのままになっています。他の曲輪が平滑に造成されて言うことを思えば特殊な役割を担う曲輪であった可能性が高いと考えられます。ここからは瀬戸内海の眺望が大変に優れ、見張りにはもってこいです。ここから四国までは塩飽水道と呼ばれる海峡部分を経てたったの10kmしか離れておらず、城は瀬戸内海水運を握る要衝にあると言えるでしょう。
豊臣秀吉時代に備前国を治めていた豊臣氏一門衆、宇喜多秀家には毛利氏の抑えが期待されており、下津井城の築城が開始されたのだと考えられます。それを今度は徳川家康が、豊臣恩顧の大名達がひしめく西国監視の最前線の城として、徳川氏姻族の筆頭である池田氏に命令して改修させたのだと考えると、なんとも歴史の皮肉を想起させます。
いずれにせよ、豊臣時代から徳川時代の初頭にかけて西国監視を担う城として機能していたのは間違いないようです。そして慶長20(1615)年の豊臣家滅亡、福島正則の改易に続いて元和8(1622)年に備後国に徳川氏譜代の水野氏の居城、福山城が築城されると、その地政学的地位は下がり、後には先述の通り破城となったのでした。
なんとも数奇な歴史をたどった城ですが、結局、この城もまた戦火にさらされることにはならなかったのは幸運と言えるでしょう。
せっかく勉強したので、いずれ石垣の悉皆調査を行い、文章化しようかと目論んでおります。さてさて、今日はここまでで失礼します。

2018年12月16日日曜日

心機一転

HNS時代からかれこれ14年やってきたBlogですが、ここ数年全くいじってなかったので古い情報は削除しました。

心機一転、完全に新しい記事に書き換えることにしました。

基本的に以下の内容について更新します。

1 中近世の城下町研究
戦国期城下町から近世紀城下町への移行を、石垣の出現と地割り(縄張)の変遷から探っていこうと思っております。目下、宇喜多氏ならびに池田氏の城下町(岡山・鳥取・姫路・赤穂・平福・高砂・明石)について勉強を始めたところです。

2 石垣の「城」探訪
石垣求めてどこへでも。今日はどこへ行こうかな。時々図面も書いてます。そのうちドローンも飛ばします。

3 考古学研究へのLinuxの活用
Debian GNU/Linuxのユーザーです。大学卒業後すぐに始めたので、かれこれ17年目に入りましたが、博物館時代は全くいじってなかったので再勉強中です。QGISを用いた地理情報分析、R言語を用いた多変量解析、PostgreSQLを用いた岡山城石垣データベース作成なんかができたらいいなと目論んでおります。勿論成果はオープンにします。

というわけで、ぼちぼちいきます。なにぶん城郭研究は初心者なのでおかしなことをしでかすと思いますが、生暖かい目で見てやってください。


岡山城本丸下の段六十一雁木門石垣 by turbow76 on Sketchfab 岡山城本丸下の段の六十一雁木門石垣です。本段に設けられた門の袖石垣で、高さ2m近い立石、長さ3m以上の横立石を豪快に積んだ勇壮な石垣です。 旭川筋から直接...