2019年7月13日土曜日

岡山城二ノ丸の外下馬門櫓石垣をOpenDroneMapで3Dモデル化しました(その2)。


岡山城の外下馬門櫓石垣の3DモデルをOpenDroneMap 0.8.2で再生成してみました。

前回のバージョンから何回かのアップデートがありましたが、明らかに石垣隅角の形状や、築石のディテールがきちんと表現されるようになっていて、アップデートの進捗がうかがえます。

生成されたgiotiffをQGISにはめ込んでGIOリファレンスする限り、まだまだ実測図の代わりになるほどの正確さはないようですが、今後のアップデートに期待ができそうです。

ODM開発チームには、最大限の敬意を払いたいと思います。

外下馬門櫓石垣の位置
QGIS上で合成した西丸西手櫓の位置
※下図は「OpenStreetMap and contributors、地図はCC BY-SA としてライセンス」である

2019年7月12日金曜日

岡山城の西丸西手櫓石垣をOpenDroneMapで3Dモデル化しました。




岡山城現存櫓の一つ、西丸(にしのまる)西手櫓(:重要文化財)の基部石垣をOpenDroneMapにて三次元モデル化。

西の丸西手櫓
西丸西手櫓と石垣
かの禁酒会館南の駐車場に、近年突如出現した岡山城の新たなビュースポット。道路に面していた建物が取り壊しとなったため、この姿を見ることができるようになったのでした。

慶長8年。小早川秀秋亡き後、備前一国を拝領したのは後に西国将軍と称された池田輝政の息子にして、将軍徳川家康の外孫であった池田忠継でした。時に忠継は5歳。この時岡山城に入って代政したのが異母兄の池田利隆でした。これを利隆の「備前監国」といいます。

利隆は岡山城主ではなかったことを鑑み、ここ、西の丸を築いて入城したとされます。

この時、あわせて築かれたとされるのが、この西手櫓です。重箱形の隅櫓で、一階は二ヶ所の格子窓と石落とし、二階も格子窓があるのみです。見ての通り総白壁の塗籠め造りで、壁も厚く、重厚な造りです。岡山城の西端を守る要地にあるだけでなく、全国的に見ても慶長期半ばに遡る可能性をもつ、貴重な櫓の一つです。

さて、その基部となる石垣の築石は、多面を割る打ち込み矧ぎです。間詰め石はほとんど用いられず、自然石はほぼ見られません。石の法量は揃っています。また、横目地がよく通り、布積み傾向が顕著です。さらに、地山の削り残しとみられる巨岩が、あたかも鏡石のように見るものを威圧しています。

自然石が混じり、間詰め石も顕著に見られる石山門周辺の石垣とは、異なる様式を示します。ただ、単純に時期差と考えてよいかは、思案のしどころです。

とにもかくにも、慶長期に遡りうる櫓と石垣のセットが見られるのは、岡山城ではここだけですので、岡山城散策の際にはお見逃しなく。

QGIS上で合成した西丸西手櫓の位置
※下図は「OpenStreetMap and contributors、地図はCC BY-SA としてライセンス」である



2019年7月10日水曜日

「ムカシのミライ」読感

ずいぶん前に読んだのですが、某所で話題になっているようなので私見を述べます。

監修者の一人である溝口先生の意見について基本的には賛意を表したいのですが、一部違和感を感じたのでここではそれを中心に述べます。

先生はこの本の最終章の「ポストプロセス考古学的フェーズにおける社会考古学」の中で考古学的実践を、「過去の人々が、自らが分節した世界の複雑性を切り縮め・加工しながら生き続けたことの物的痕跡」を対象に行われるとしています。

ですが、この考えは社会システム理論的に誤りなのではないでしょうか。

まず、私たちは世界を知り得ません。世界はありとあらゆるもの全体であり、私たち人間の知性が知りうる最大の複雑性(=ミクロ状態の違いによって区別された場合の数。ようするに選択肢のこと)を圧倒的に凌駕するものです。ゆえにその縮減など不可能です。 

私たちが学問的実践の対象としているのは世界ではなく、溝口先生がいみじくもおっしゃるとおり社会です。社会とはコミュニケーション可能なものの総体です。

また、少なくとも私たち日本の考古学の研究者は物的痕跡そのものを対象に、学問を実践しているわけではありません。私たちは物的痕跡を「型式(=A)」という「概念」として把握しています。「型式」は複数の個体の差異を超えて抽出される属性(=a・b・c)の集合からなります。これを式に表すと以下のようになります。

a∈A b∈A c∈A つまり、A{a,b,c}

第3に「型式学」による考古学的実践はその出発点において否定姓を帯びています。型式Aの存在は無数にある属性の中からa、b、cを示差的に選択した結果得られます。これは同時に属性c、d、eを非選択したことに他ならず、故に型式Aを設定することは、c、d、eを組み合わせた型式Bの存在を暗黙的に前提とします。以下、式で表すとこうなります。

 A{a,b,c}ΦB{c,d,e}

よって、考古学的コミュニケーションは常に偶発性を帯びたもので、別の選択肢への可能性がプールされ続けます。

結果、考古学的コミュニケーションは現にある社会、あるいは国家の維持・再生産に必ずしも寄与するわけではないのです。むしろ、別の選択肢がいつ、いかようにでも可能であることを示し続けることにより、別の社会関係が可能であることを立証することにこそ、学問的本義があるのではないでしょうか。

第4に制度としての日本考古学は他の学問との互換性を持ち得ません。「型式学」という、他の学問が保持していない準拠フレーム(選択前提、ようするに制度のこと)を持っているからです。

溝口先生が「弥生時代の墓地を場/媒体として創発する領野とショッピングモールを場/媒体として創発する領野も」研究対象として「本質的な相違は全くない」とするのは一面的な見方なのではないでしょうか。

まず、前者は現に存在しない社会を対象としています。考古学の場合、「型式学的」方法により「物質的痕跡」を抽象化(=型式化)し、その相互の差異が時空間的にいかなる意味を持つかを問い続けます。 

一方、後者は現に存在している社会を対象としています。ショッピングモールを「市場」とみて、その「利益」扱う経済学、支払いや卸など「行為」の蓄積とみてこれを扱う社会学、「大規模小売店舗立地法」等の対象としてこれを扱う「法学」など様々な経験科学により分析が可能です。

もし、考古学的にショッピングモールを分析するなら、ショッピングモール内の各店舗の構造、店舗と導線との位置関係、駐車場との成層的、あるいは並列的な空間構造を諸属性とする型式Aを抽出し、検討することが可能なはずです。しかし、これは厳密な意味で考古学になり得ません。なぜか。発掘調査による層位学的な検証が不可能だからです。

よって、考古学の検討の対象となる過去の社会と、経済学、法学、社会学等が対象とする現にある社会とを媒体として創発される領野との間には、差異が横たわっていると考えるのが妥当でしょう。

このように、諸学問は同じ社会的事象を対象としてもそれぞれ異なる準拠フレームを持っているが故に、相互に「機能的等価」とはならず、他の学問との境界を維持・再生産し続けます。 

私たち日本の考古学研究者は「型式学」という準拠フレームをもつという点でプロセス派、ポストプロセス派的な考古学との間に差異があり、それにより自己言及的な再生産を続けることができたのでした。 

別言すれば、私たち日本の考古学研究者はプロセス派、あるいはポストプロセス派的なフェーズとは(意図せざるものであったにせよ)距離をとることができたが故に、「型式学」の彫琢をその学問的な目的とすることができたとも考えられます。 

また、私たち日本の考古学研究者は「型式学」を通じてこそ有用な知の蓄積(=ゼマンティク)を提供することが可能なはずです。なぜなら、「型式学」という学問的制度を通じてなら、個別分野(ナイフ形石器・縄文土器・弥生墳丘墓・円筒埴輪・城郭等々の細別分野)を超えたコミュニケーションの広がりが予期できるからです。

価値観の共有(の結果としての俗流伝播主義考古学、唯物論的考古学、プロセス派的考古学、ポストプロセス派的考古学への細別化)ではなく制度への信頼(の結果としての型式学の体系化)にもとづく考古学こそが、私たち日本の考古学者が選ぶことができるであろう、現実的な選択肢ではないのでしょうか。

まったくもってゴリゴリ保守派の意見になってしまったようですが、決して変化を拒んでいるのではありません。ただ、どうせ変わるのなら、より多くの選択肢を創発できる方向に変わりたいと言っているだけです。

まぁ、私の一面的な曲解に過ぎない気もするので、まだお読みでない方は以下のリンクから是非どうぞ。

http://www.keisoshobo.co.jp/book/b376461.html

岡山城石山門石垣を3Dモデル化しました。



櫓門石垣を含めた岡山城石山門石垣の完全版です。画面中央手前が大手門から続く二の丸大手筋でした。門の入り口に高麗門が、枡形内部で一折れして櫓門をくぐって入城していました。

岡山城の西の丸南東に位置する門で、慶長8年に西の丸を築いて代政した、池田利隆により築かれたものとされます。

この石山門は昭和20年6月29日の岡山大空襲の際に焼失しました。この時点で岡山城内の櫓門の依存例はここしかなく、失われたことは無念の極みです。

隅角は算木積みの傾向がありますが、隅脇石との関係は不明瞭です。築石には多面割りによる打ち込み矧ぎのものと、野面のものが併用されますが、前者のほうが優勢です。傾斜角は71~74°とかなり急です。また、櫓門基部の石垣には幅2mを超える鏡石が見られます。一点だけですが、刻印石が見られます。また、転用材は一点もありません。

これら諸特徴から、乗岡実氏の岡山城4類と5a類の両方の特徴を持つとみてよく、慶長半ばに両型式が併用されていたとする氏の説を補強する材料となりそうです。

QGIS上で合成した石山門の位置
※下図は「OpenStreetMap and contributors、地図はCC BY-SA としてライセンス」である。



・・・giotiffが微妙にずれてる。どうやら直線的に動きながら写真を撮らないとうまく合成できないみたいですね。

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