2020年1月11日土曜日




岡山城本丸下の段の六十一雁木門石垣です。本段に設けられた門の袖石垣で、高さ2m近い立石、長さ3m以上の横立石を豪快に積んだ勇壮な石垣です。

旭川筋から直接本丸本段に入ることができる用地に当たります。  発掘調査により、確実に宇喜多・小早川期の遺構面を切って根切りしていることから、池田利隆監国期でも初期に築かれたとされています。

立石の中に矢穴を持つものがあり、矢口の大きさは慶長12年に新城として築かれていた下津井城と同じ。同じ頃本丸中の段でも、大納戸櫓築造に伴って1m以上も生活面がかさ上げされていたことがわかっています。

池田利隆期から忠雄期に至る前期池田期に、岡山城は新城として普請されたも同然の大改造を受けていたのでした。

2019年11月11日月曜日

下津井祇園台場の石垣をOpenDroneMapでSFM化してみました。


今回はちょっと変わり種。下津井祇園台場です。岡山藩が文久4年に築いた台場の一つで、石垣が現存する貴重なものです。

長辺10cmを超える大型の矢穴を持つ築石も見られます。おそらくは近在する下津井城から持ち出されたものと考えられます。

幕末の緊張感を今に伝える貴重な遺構です。

備中松山城の大手門南櫓石垣をOpenDroneMapでSFM化してみました。



OpenDroneMapのインターフェースの一つ、webODMを導入してみました。GCP等細かな設定が可能で、これから研究してみたいと思います。

ひとまず、小さめのこちらを作成。備中松山城の大手門南櫓台石垣をSFM化してみました。上半は厳しそうですが、ひょっとして根石付近は生きている?

櫓門がどの時期に改修を受けたを含め、検討の余地がありそうですね。

2019年11月8日金曜日

備中松山城の石垣を見る

備中松山城の石垣は、大変残りがよく、特に大手門付近の石垣は格好のフォトスポットとなっています。ここではあらためて現役石垣の特徴を改めてみてましょう。

大手枡形付近の石垣
大手門付近の石垣
大手門付近の石垣築石

大手門付近の石垣です。幾重にも重なり、露岩の上に築かれる石垣は壮観です。築石を見てみると、大きくても50cmほどでで小さな石を用いていることがわかります。そのため、築石と間詰め石との使い分けが判然としていません。摂理に沿って割れた自然石が主体で、わずかに矢穴を持つ割石が見られます。そのため石垣正面は極めて平滑です。目地はほとんど通らない乱れ積みですが、部分的に落とし積みが見られます。

本丸下の高石垣
二の丸下の高石垣
本丸下高石垣の築石
二の丸下の高石垣の築石

二の丸下の高石垣は場内で唯一、慶長期の特徴を残すとされている石垣です。築石を観察すると、部分的に根石に巨石(1m超)が用いられている点が特徴的です。築石は摂理に沿って割れた自然石と、角の丸い自然石が混ざりますが、摂理に沿って割れた自然石が優勢です。矢穴を持つ築石はほぼ認められません。間詰め石を盛んに用いて、石同士の密着度を高めています。部分的に目地が通りますが、基本的には乱れ積みです。巨石付近を除くと落とし積みの傾向が顕著です。

本丸東の高石垣


本丸東の高石垣の築石
現役石垣で最も高い本丸東の高石垣です。隅角はシノギ積みとなります。やはり築石は小さく、大きくても60cmほど。矢穴のある石垣もあるのですが、摂理に沿って割れた自然石を石垣面として用いるものが多いようです。間詰め石には脱落が見られ、奥を覗くと控え積みが見えます。

後曲輪跡石垣
後曲輪跡石垣の築石

小松山城最北部にある後曲輪跡の石垣です。築石を見ると、最大でも50cmで、中心となるのは30cm大の石材です。矢穴のある石材は一切認められず、摂理に沿って割れた自然石が中心となります。見かけは平滑ですが、よく見ると角の丸い石も点在しています。全体的に見て築石と間詰め石の分化が判然としていません。

大池

大池の石垣築石

 小松山城から北に約650m。備中松山城の中世山城にあたる天神の丸と大松山城の間の谷地に、忽然と姿を現す水の手です。忠臣蔵で有名な大石良雄が、備中松山城の受け取りに際して記した日記にも登場します。四周が石垣化されており、東と南には石段がつけられいます。

築石は自然石と摂理に沿った割石と、矢穴を持つ割石、完全な自然石が混ざり合っていますが、摂理に沿った割石が優勢です。間詰め石は脱落している部分が多く、奥には控え積みが見えます。

長辺6cmを測る矢穴
長辺8cm以上を測る矢穴

矢穴は長辺6cmを測るものと、8cm以上(10cm程か)を測るものの2種類が認められます。よく観察していると、矢穴自体が割れているものが見られ、2次的に割られたものがあることがわかります。

現状、この2種類の矢穴は場内の各曲輪の石垣に混在するようですが、この2種類の矢穴が一つの築石に用いられているものを見つけることはできませんでした。

全体的な傾向として、備中松山城石垣の築石は小さいものが多く、摂理に沿って割れた自然石を主体としながら平滑な石垣面を形成することに特徴があると言えます。しかし、細かい特徴に目を向けると、

巨石傾向が認められる石垣(二の丸下高石垣)、巨石傾向は認められないが矢穴を持つ石垣(大手門付近、本丸東石垣、大池石垣)、持たない石垣(後曲輪石垣)に分けることができます。後曲輪石垣は間詰め石の分化も認められないなど、様相が他の石垣と異ります。このように、曲輪により、石垣の特徴が異なるようです。

こうした違いが、普請の時期差、石工の系統の違い、あるいは曲輪の格付けなどと関わっているのかは残された問題です。

幸いにして、天守台付近や大手門付近の発掘調査によって、オリジナルと考えられている石垣が検出されており、それらとの比較が課題となります。

まだまだ調べがいのありそうな石垣ですが、ひとまずはここで。

2019年11月4日月曜日

備中松山城の重要文化財二重櫓の公開へ行ってきました


備中松山城本丸
備中松山城本丸
備中松山城二重櫓
備中松山城二重櫓
備中松山城の二重櫓公開へ行ってきました。岡山県内では数少ない現存櫓で、重要文化財に指定されています。

層塔型の二重櫓で、漆塗りの竪板を貼り、天守と意匠をあわせます。破風など装飾はほとんどなく、耽美な様式を示します。

2層目天井の梁
2層目天井の梁
梁は一本木。屋根の構造も簡素なものですが、なかなかに見応えを感じます。

第2層目の鉄砲狭間
第2層目の鉄砲狭間

第2層目には鉄砲狭間が開いていますが、外側に竪板が貼られているため、使うことはできません。

格子窓から外を望む
格子窓から外を望む
格子窓から外を見てみました。外は明るく、中は薄暗い。格子の部材の厚さは10cmほどでした。

全体に見て、城郭櫓としての重厚性、機能性よりも、太平の世の様式性が反映されていように感じました。

瓦は古いものでも水谷期のもの。この櫓は17世紀前半の備中松山城を描いたとみられる「正保城図」には描かれていません。天和年間とされる、水谷勝宗による大改修に際して、新造されたとみて良いのではないでしょうか。

一年で数日しか公開されない貴重な文化財です。未見の方は是非おすすめします。

備中松山城の土塀をOpenDroneMapでSFM化してみました


備中松山城の土塀 by turbow76 on Sketchfab

備中松山城の土塀です。江戸期の土塀がそのまま残っているという全国的に見ても希有な事例で、重要文化財に指定されています。

ちなみに一折れしてから約10mほどが現存部位で、復元した部分と見分けがつくように、段差がつけられています。

2019年11月3日日曜日

岡山城月見櫓の公開へ行ってきました

毎年恒例の岡山城月見櫓公開へ行ってきました。

岡山城月見櫓
岡山城月見櫓


池田忠雄により造営されたものです。建物の様式的見地、切り込みは矧ぎと、打ち込み矧ぎ、鑿整形を多用する櫓代石垣の特徴、そして発掘調査の成果と合わせ、寛永年間初頭に造営されたと考えられています。

第一階層の内部
第一階層の内部
層塔型の櫓です。中に入ると意外に広いことに気がつきます。

石落としから真下を見る
石落としから真下を見る

石落としから真下を見てみました。きちんと石垣を見渡すことができます。

第2層の内部
第2層の内部

第2層の内部です。障子窓の外側には手すりのついた縁側が設けられています。柱は側柱のみで、居住性は良いと言えます。

武者隠し
武者隠し

大人でも優に三人は入れる広めの武者隠し。明かり取りの小窓がついてます。

第2層の天井板
第2層の天井板
第2層の天井板です。節はほとんど見られない良材を用いています。格式の高さがうかがえます。

第2層から本丸中の段を見る
第2層から本丸中の段を見る

第2層から見渡した本丸中の段です。この広大な敷地に政庁(表御殿)が建っていました。月見櫓の造営に合わせて、造成土を盛って本丸を拡張したことが、岡山市教育委員会による発掘調査の成果から判明しています。

笠石
笠石
岡山城では月見櫓の周囲にしかない、笠石と呼ばれる石製の銃眼です。銃口を下方向に向けることは難しく、狭間としては機能し得ません。一種の痕跡器官と呼ぶべきものでしょう。

岡山城には11棟もの三重櫓が立ち並んでいたのですが、現存するのはこの一棟のみです。岡山城の普請は宇喜多直家に始まり、池田忠雄に至るまで約半世紀の長きにわたってなされました。その完成期を象徴する櫓と言えるでしょう。

また来年の公開にも、ぜひ足を運びたいものです。

2019年9月6日金曜日


OpenDroneMapで作成した、彦根城天守台石垣の3Dモデルを共有します。残念ながら工事中でしたので、2面しか見られないのはお許しください。

また機会を見て、データを取りに行こうと思います。

2019年7月13日土曜日

岡山城二ノ丸の外下馬門櫓石垣をOpenDroneMapで3Dモデル化しました(その2)。


岡山城の外下馬門櫓石垣の3DモデルをOpenDroneMap 0.8.2で再生成してみました。

前回のバージョンから何回かのアップデートがありましたが、明らかに石垣隅角の形状や、築石のディテールがきちんと表現されるようになっていて、アップデートの進捗がうかがえます。

生成されたgiotiffをQGISにはめ込んでGIOリファレンスする限り、まだまだ実測図の代わりになるほどの正確さはないようですが、今後のアップデートに期待ができそうです。

ODM開発チームには、最大限の敬意を払いたいと思います。

外下馬門櫓石垣の位置
QGIS上で合成した西丸西手櫓の位置
※下図は「OpenStreetMap and contributors、地図はCC BY-SA としてライセンス」である

2019年7月12日金曜日

岡山城の西丸西手櫓石垣をOpenDroneMapで3Dモデル化しました。




岡山城現存櫓の一つ、西丸(にしのまる)西手櫓(:重要文化財)の基部石垣をOpenDroneMapにて三次元モデル化。

西の丸西手櫓
西丸西手櫓と石垣
かの禁酒会館南の駐車場に、近年突如出現した岡山城の新たなビュースポット。道路に面していた建物が取り壊しとなったため、この姿を見ることができるようになったのでした。

慶長8年。小早川秀秋亡き後、備前一国を拝領したのは後に西国将軍と称された池田輝政の息子にして、将軍徳川家康の外孫であった池田忠継でした。時に忠継は5歳。この時岡山城に入って代政したのが異母兄の池田利隆でした。これを利隆の「備前監国」といいます。

利隆は岡山城主ではなかったことを鑑み、ここ、西の丸を築いて入城したとされます。

この時、あわせて築かれたとされるのが、この西手櫓です。重箱形の隅櫓で、一階は二ヶ所の格子窓と石落とし、二階も格子窓があるのみです。見ての通り総白壁の塗籠め造りで、壁も厚く、重厚な造りです。岡山城の西端を守る要地にあるだけでなく、全国的に見ても慶長期半ばに遡る可能性をもつ、貴重な櫓の一つです。

さて、その基部となる石垣の築石は、多面を割る打ち込み矧ぎです。間詰め石はほとんど用いられず、自然石はほぼ見られません。石の法量は揃っています。また、横目地がよく通り、布積み傾向が顕著です。さらに、地山の削り残しとみられる巨岩が、あたかも鏡石のように見るものを威圧しています。

自然石が混じり、間詰め石も顕著に見られる石山門周辺の石垣とは、異なる様式を示します。ただ、単純に時期差と考えてよいかは、思案のしどころです。

とにもかくにも、慶長期に遡りうる櫓と石垣のセットが見られるのは、岡山城ではここだけですので、岡山城散策の際にはお見逃しなく。

QGIS上で合成した西丸西手櫓の位置
※下図は「OpenStreetMap and contributors、地図はCC BY-SA としてライセンス」である



2019年7月10日水曜日

「ムカシのミライ」読感

ずいぶん前に読んだのですが、某所で話題になっているようなので私見を述べます。

監修者の一人である溝口先生の意見について基本的には賛意を表したいのですが、一部違和感を感じたのでここではそれを中心に述べます。

先生はこの本の最終章の「ポストプロセス考古学的フェーズにおける社会考古学」の中で考古学的実践を、「過去の人々が、自らが分節した世界の複雑性を切り縮め・加工しながら生き続けたことの物的痕跡」を対象に行われるとしています。

ですが、この考えは社会システム理論的に誤りなのではないでしょうか。

まず、私たちは世界を知り得ません。世界はありとあらゆるもの全体であり、私たち人間の知性が知りうる最大の複雑性(=ミクロ状態の違いによって区別された場合の数。ようするに選択肢のこと)を圧倒的に凌駕するものです。ゆえにその縮減など不可能です。 

私たちが学問的実践の対象としているのは世界ではなく、溝口先生がいみじくもおっしゃるとおり社会です。社会とはコミュニケーション可能なものの総体です。

また、少なくとも私たち日本の考古学の研究者は物的痕跡そのものを対象に、学問を実践しているわけではありません。私たちは物的痕跡を「型式(=A)」という「概念」として把握しています。「型式」は複数の個体の差異を超えて抽出される属性(=a・b・c)の集合からなります。これを式に表すと以下のようになります。

a∈A b∈A c∈A つまり、A{a,b,c}

第3に「型式学」による考古学的実践はその出発点において否定姓を帯びています。型式Aの存在は無数にある属性の中からa、b、cを示差的に選択した結果得られます。これは同時に属性c、d、eを非選択したことに他ならず、故に型式Aを設定することは、c、d、eを組み合わせた型式Bの存在を暗黙的に前提とします。以下、式で表すとこうなります。

 A{a,b,c}ΦB{c,d,e}

よって、考古学的コミュニケーションは常に偶発性を帯びたもので、別の選択肢への可能性がプールされ続けます。

結果、考古学的コミュニケーションは現にある社会、あるいは国家の維持・再生産に必ずしも寄与するわけではないのです。むしろ、別の選択肢がいつ、いかようにでも可能であることを示し続けることにより、別の社会関係が可能であることを立証することにこそ、学問的本義があるのではないでしょうか。

第4に制度としての日本考古学は他の学問との互換性を持ち得ません。「型式学」という、他の学問が保持していない準拠フレーム(選択前提、ようするに制度のこと)を持っているからです。

溝口先生が「弥生時代の墓地を場/媒体として創発する領野とショッピングモールを場/媒体として創発する領野も」研究対象として「本質的な相違は全くない」とするのは一面的な見方なのではないでしょうか。

まず、前者は現に存在しない社会を対象としています。考古学の場合、「型式学的」方法により「物質的痕跡」を抽象化(=型式化)し、その相互の差異が時空間的にいかなる意味を持つかを問い続けます。 

一方、後者は現に存在している社会を対象としています。ショッピングモールを「市場」とみて、その「利益」扱う経済学、支払いや卸など「行為」の蓄積とみてこれを扱う社会学、「大規模小売店舗立地法」等の対象としてこれを扱う「法学」など様々な経験科学により分析が可能です。

もし、考古学的にショッピングモールを分析するなら、ショッピングモール内の各店舗の構造、店舗と導線との位置関係、駐車場との成層的、あるいは並列的な空間構造を諸属性とする型式Aを抽出し、検討することが可能なはずです。しかし、これは厳密な意味で考古学になり得ません。なぜか。発掘調査による層位学的な検証が不可能だからです。

よって、考古学の検討の対象となる過去の社会と、経済学、法学、社会学等が対象とする現にある社会とを媒体として創発される領野との間には、差異が横たわっていると考えるのが妥当でしょう。

このように、諸学問は同じ社会的事象を対象としてもそれぞれ異なる準拠フレームを持っているが故に、相互に「機能的等価」とはならず、他の学問との境界を維持・再生産し続けます。 

私たち日本の考古学研究者は「型式学」という準拠フレームをもつという点でプロセス派、ポストプロセス派的な考古学との間に差異があり、それにより自己言及的な再生産を続けることができたのでした。 

別言すれば、私たち日本の考古学研究者はプロセス派、あるいはポストプロセス派的なフェーズとは(意図せざるものであったにせよ)距離をとることができたが故に、「型式学」の彫琢をその学問的な目的とすることができたとも考えられます。 

また、私たち日本の考古学研究者は「型式学」を通じてこそ有用な知の蓄積(=ゼマンティク)を提供することが可能なはずです。なぜなら、「型式学」という学問的制度を通じてなら、個別分野(ナイフ形石器・縄文土器・弥生墳丘墓・円筒埴輪・城郭等々の細別分野)を超えたコミュニケーションの広がりが予期できるからです。

価値観の共有(の結果としての俗流伝播主義考古学、唯物論的考古学、プロセス派的考古学、ポストプロセス派的考古学への細別化)ではなく制度への信頼(の結果としての型式学の体系化)にもとづく考古学こそが、私たち日本の考古学者が選ぶことができるであろう、現実的な選択肢ではないのでしょうか。

まったくもってゴリゴリ保守派の意見になってしまったようですが、決して変化を拒んでいるのではありません。ただ、どうせ変わるのなら、より多くの選択肢を創発できる方向に変わりたいと言っているだけです。

まぁ、私の一面的な曲解に過ぎない気もするので、まだお読みでない方は以下のリンクから是非どうぞ。

http://www.keisoshobo.co.jp/book/b376461.html

岡山城本丸下の段六十一雁木門石垣 by turbow76 on Sketchfab 岡山城本丸下の段の六十一雁木門石垣です。本段に設けられた門の袖石垣で、高さ2m近い立石、長さ3m以上の横立石を豪快に積んだ勇壮な石垣です。 旭川筋から直接...