2019年3月17日日曜日

今更ですが足守周辺で縄張り図を作成中です。

6月3日に迫った山陽新聞フォーラムに向けて、今頃調査中です。笑ってやってください。

仕事ではGPSを使って描いているのですが、個人的には歩測とレーザー測距機、コンパスを組み合わせれば十分に描けると思っています。

・・・ただ、IphoneのGPSで答え合わせはしていたりして。平面直角座標があると、QGISに簡単に取り込むことができるのですね。

宮路山城跡縄張り図
作成中の宮路山城跡縄張り図
https://c.sanyonews.jp/release/2019/02/20190212094325.html

「岡山の中世城館から迫る戦乱の世」ということで、発掘調査をまとめた発表を仰せつかりました。

岡山県内では赤磐市保木城跡や周匝茶臼山上跡などの戦国期山城の他、鏡野町久田堀之内遺跡や岡山市中島城跡などで平地城館の調査例があります。

鏡野町の城峪城跡、久田上原城跡、河内城跡、比丘尼ヶ城跡など、南北朝期の「城塞群」の調査例もあり、これは全国的に見ても貴重な例です。

大決戦となった備中高松城の戦いに際して築かれた、毛利方、織田方の両方の陣城・付城の調査例もあり、中世山城発達の歴史と多様性を知るにはもってこいの場所なのです。

さらにさらに、岡山城跡や備中松山城跡、津山城跡や下津井城跡など近世城郭でも調査例があります。特に岡山城跡では中世城館から織豊期における「礎石建物・瓦・石垣」の採用、そして寛永期と目される近世城郭としての完成過程が、層位的に明らかになっています。

これら全てを総括的に話すことなど私の手には到底余るので、トピックを絞って話そうかと。

結論から言ってしまえば、縄張り図研究と発掘調査は相互補完的な関係にあるということがいいたいのですが、そうなると縄張り図も描かないといけないことに。

というわけで、いまさらあわてて描いている次第です。なんとも情けない。やっぱり話を聞くなら、合戦のあった山城の方がドラマチックですよね。そんなわけで目下、足守周辺へ出撃中です。

備中高松城の戦いの前哨戦として、いわゆる境目七城を巡る攻防戦があったことはよく知られていますが、足守地区にあった冠山城跡と宮路山城跡の攻防戦は激戦であったらしく、先述したとおり毛利方、織田方の両方の付城、陣城が連なっている場所です。これら陣城、付城のいくつかが発掘調査されており、それについて話そうと思っています。

宮路山城跡と鍛冶山城跡(南から)
天正10年4月25日。足守地区の中央にある冠山城を落城させた羽柴・宇喜多連合軍は、宮路山城へ攻めかかります。このとき羽柴方の付城として築かれたのが鍛冶山城です。そして毛利方の退路を断つべく小陣屋跡、千引(あの千引かなくろ谷遺跡の千引です)砦跡などが宮路山城後背の阿曽地区の丘陵上に築かれました。

写真で見てわかるとおり、宮路山城と鍛冶山城は足守川を挟んで真っ正面の位置にあり、まさしく決戦!というにふさわしい状況です。

夜中に鉄砲打ちかけられたり大声出されたりしたらたまらんですよね、お互いに。

さあ、準備が発表まで間に合うかどうか。こちらも勝負ですね。

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